鍼と文章のあいだ

同僚たちと長鍼の本をつくったとき、いちばん大切にしたのは華やかな文章より位置でした。筋と経穴、家庭でできるストレッチが一目でわかるよう写真を重ねました。学生や臨床初期の仲間が、手を置く場所を間違えないでほしいと願ったからです。安全と効果は、結局、正確な位置感覚から始まると考えていました。
長鍼は深く入るぶん、気をつけることも多い。ですからあの本の半分は、実のところ「してはいけないこと」の本になりました。避けるべき構造がどこにあるのか、角度が少しずれると何に当たるのか。安全を先に書いておくと、残された場所ではむしろ迷いなく手を使えます。
編集では文を削る作業を多くしました。美しい表現より、実際に従える指示が残るように。QRでつながる動作動画、モデル写真の上の解剖レイヤー、短い注意事項。本を閉じたあとも手が覚えている形をつくりたかった。文章が知識の列挙で終わらず、臨床の現場の手になること。
自分で絵を描き始めたのも、その頃からです。写真だけでは皮膚の下が見えず、文章だけでは角度が定まらない。線を何本か重ねると、その二つが同時に解けることが多かった。上手な絵より、迷わない絵を目標にしました。
青少年向けの健康書『十一歳になる前に知っておきたい本当のからだ』と『十四歳になる前に知っておきたいからだとこころ』では、作画を担当しました。文章が用語を削った場所で、絵がからだの信号を代わりに示さなければならない。「ここが痛い」という感覚を怖がりすぎず、暮らしのなかで解釈できる形として渡すこと。家族がまた開いて読める説明書でもあります。
その絵を描きながら気づいたことがあります。子どもたちはからだについて驚くほど知りたがっているのに、尋ねられる場所がほとんどないということ。生理や成長痛、姿勢、睡眠、体重といった話題は特にそうです。恥ずかしくない口調で正確な情報を渡すだけで、助けになることが多くありました。その口調をつくるのが、線一本の温度だということも、そのとき学びました。
外国人患者から学んだこともあります。効果は国境を越えられても、安心できる説明には言語が要ります。同じ治療でも、期待や感覚の表し方が違うことがあります。だからこそ簡単で正確な言葉が必要で、その訓練がいまの記録の習慣につながりました。この場を韓国語とともに英語・中国語・日本語で開いている理由も同じです。
論文を書いた経験も同じ場所に置かれています。根拠を扱う言葉は、鍼よりもさらに慎重でなければなりませんでした。まだ動物実験の段階にある結果を、人で確かめられたかのように書けば、それは文章ではなく誤診に近い。一文の深さを測る作業が、そこでも同じように必要でした。
鍼がからだに触れる瞬間と、文章が読者に触れる瞬間は、私に似た緊張を与えます。深すぎても浅すぎてもいけません。過剰な修辞も、足りない安定も毒になります。適度な深さと方向、そして相手が受け取れる速度。その感覚を守りたいと思います。
書くことには、鍼にはない難しさもあります。診療室では相手の表情を見ながら言い直せますが、文章はひとりで届きます。だから何度も読み返します。この一文は、痛みのなかにいる人の前でも失礼ではないか、怖がらせないか、大げさではないか。
書かないと決めたものもあります。ある治療を万能のように語る文、ひとりの経験を皆の結果のように移す文、不安を利用する文。書けるのに書かない一覧が長くなるほど、文章は長く残ると信じています。
これからの診療の場でも同じ態度を保ちたい。鍼はからだに、文章は日常に、絵は理解に触れるように。三つが別々の仕事ではなく、ひとつのケアとして読まれることを願っています。